第九章 和牛番付

和牛の「脂身」だけで店を回す。奈良で出会った衝撃の名店と、廃棄されるはずの部位が看板になる革命


奈良への出張で、地元の方に紹介された名店を訪れた。 そこで出された看板メニューは──和牛の「脂身」だけで構成されたしゃぶしゃぶだった。

赤身は一切なし。 あるのは、薄く美しくスライスされた純白の脂身、わずかに紅が差した脂、緑の青菜、そして添えられた揚げパン。

畜産業界に長年身を置いてきた者として、この一皿は衝撃だった。 本記事では、この体験から得た「和牛の常識を疑う」という視点と、廃棄されるはずの部位を看板メニューに変えた革命的な発想を共有したい。

看板メニューは「脂身しゃぶしゃぶ」

その店の主役は、和牛の脂身。 通常、しゃぶしゃぶといえば赤身肉(肩ロース、ロース、モモなど)が主役だ。 脂身は「霜降り」の一部として赤身に同伴しているもの、という認識が業界の常識だった。

ところが、その店は脂身そのものを主役に据える。 皿に盛られた純白のスライスは、しゃぶしゃぶ鍋の中で軽くくぐらせた瞬間、雪のように溶ける。 口に運べば、和牛特有の甘い脂の香りが広がり、しつこさは皆無。 青菜と一緒に食べることで、口の中で完璧なバランスを生む。

畜産業界人が驚いた理由

なぜ業界人がこれを見て驚くのか。 答えはシンプル。

**「脂身は普通、廃棄されるか、低価格で副製品として処理される部位」**だからである。

と畜場・食肉処理業者の現場

牛をと畜・解体すると、可食部の他に大量の脂(脂肪)が出る。 これらは:

  • 一部は加工肉(ハンバーグ、ソーセージ等)の原料に
  • 一部は牛脂(調理用)として商品化
  • 大部分は飼料・工業用油脂などに回る、もしくは処分

つまり、**「主要な収益源にはほぼならない部位」**だったのだ。

これを看板メニューにして、しかも繁盛している店があるという事実は、業界の常識を根本から覆す。 飼料営業として全国の畜産現場を見てきた立場として、本当に驚いた。

なぜ「脂身はアクが出ない」のか

店主が語った興味深い一言:

「赤身肉はアクが出るが、脂身からはアクが出ない」

これは経験則として知られているが、科学的にも理由がある。

アクの正体

しゃぶしゃぶで赤身肉から出る「アク」の主成分は、血漿タンパク質、筋繊維タンパク質、ミオグロビンなどの水溶性タンパク質である。 これらが熱変性して凝固し、白〜灰色の浮遊物として表面に浮かぶ。

脂身の組成

一方、脂身(脂肪組織)は主に:

  • トリグリセリド(中性脂肪)が約95%
  • 結合組織(コラーゲン、エラスチン)が少量
  • 水分・タンパク質はごくわずか

水溶性タンパク質がほとんど含まれていないため、沸騰させても「アク」が出ないのだ。 店主の経験則は、生化学的にも完全に裏付けられている。

脂身は「クリアスープを保つ食材」

これは、しゃぶしゃぶ店の運営にとって驚異的なメリットとなる。

  • スープが濁らない
  • アク取りの手間が省ける
  • 二人目、三人目の客にも美しい鍋を提供できる
  • 鍋の出汁が脂で豊かになる

赤身しゃぶしゃぶでは、客が変わるたびに湯を入れ替えるか、念入りなアク取りが必要。 脂身しゃぶしゃぶは、その手間が劇的に少ない。

「和牛は全部一緒」という店主の哲学

店主の言葉で印象的だったのが、これ。

「和牛は全部一緒だよ」

ブランド和牛にこだわる業界人の多くが、松阪、神戸、米沢、宮崎、近江、米澤……と細分化していく中で、**「和牛は全部一緒」**と言い切る。

この一言の裏には、深い哲学がある。

「ブランド」より「部位活用」

ブランド名で価格を決めるのではなく、牛そのものを最後まで活用する。 それが店主の姿勢に見える。 脂身という、業界が「価値が低い」とラベリングしていた部位に、本当の価値を見出した。

「上等の和牛」の前提

もちろん「全部一緒」とは言うが、店主が選ぶのは間違いなく質の高い和牛である。 「ブランド名にこだわるな、ただし良い牛を選べ」という意味だろう。

これは消費者にとっても示唆深い。 ふるさと納税やデパ地下で、ブランド名と価格に右往左往するより、**信頼できる店主や肉屋が選ぶ「良い和牛」**を信頼するほうが、満足度は高い。

ESG・フードロス削減の観点

近年、食品ロス削減・SDGsの文脈で**「全頭活用」「全部位活用」**の取り組みが注目されている。 内臓肉(モツ・ホルモン)、すじ、骨、皮──。 かつて捨てられていた部位を、新しい料理として商品化する動きだ。

この奈良の店が示したのは、**「脂身もまた、捨てるには惜しい食材」**ということ。 これはまさにフードロス削減の優れた実例である。

経済価値の転換

部位従来の評価新しい評価
赤身肉主役、高価格主役、高価格
霜降り(サシ)高評価、最高価格高評価、最高価格
脂身単独副製品、低価格看板メニュー、付加価値
内臓業務用、中価格一部高級店で看板化
すじ低価格煮込み専門店で人気

「ロスを商品に変える」発想こそ、現代の畜産・食肉業界に必要な視点だ。

畜産農家・業界人へのインスピレーション

この奈良の店から、畜産関係者が学ぶべきことは多い。

1. 既存の価値観を疑う

業界の常識(「脂身は低価値」)は、必ずしも絶対ではない。 消費者目線で再評価することで、新たな価値が生まれる

2. 6次産業化の視点

直販・加工に進む農家は、**「自分の牛のすべての部位をどう活かすか」**を考える必要がある。 赤身だけ売って終わりではなく、脂、内臓、骨まで含めた全頭活用の販売戦略こそ、独立経営の差別化になる。

3. 飼育目標の再考

「脂身もごちそうになる」という認識が広がれば、飼育期間中の脂質付き方の管理にも新しい目標が生まれる。 霜降り偏重ではなく、皮下脂肪・筋間脂肪・腎周脂肪のバランスを意識する飼料設計が重要になっていく。

正直に告白する:夜中、下痢祭りでした

ここまで脂身しゃぶしゃぶを絶賛してきたが、現場の体験者として一つ正直に告白する。

その夜、私は下痢祭りに見舞われた

美味しすぎて食べ進めた結果、純粋な和牛脂を相当量摂取してしまったのが原因だ。 これは多くの人が脂身しゃぶしゃぶを体験すると経験することで、決して店や食材の問題ではない。 自分の摂取量管理の問題である。

なぜ脂身大量摂取で下痢になるのか

人間の消化システムには、脂質処理にキャパシティがある。

摂取条件体の反応
通常量の脂質摂取胆汁・リパーゼで正常に消化
大量の脂質一括摂取胆汁分泌が追いつかない、未消化の脂が腸を通過、腸管刺激で下痢

特に、和牛脂のように融点が低く吸収されやすい脂質は、**「美味しいから食べ過ぎてしまう」**特性がある。 気がついたら通常の倍量を平らげている、というのが脂身しゃぶしゃぶの「罠」である。

賢い食べ方:三つの心得

心得内容
量を控えめに1人前の半量から始め、様子を見つつ追加する
野菜と組み合わせる食物繊維が脂質吸収を緩やかにする
翌日の予定を確認翌朝早い・遠出する日は避ける

でも、それでも食べる価値がある

「下痢になるなら危険?」と思うかもしれないが、これは**「美味しすぎる罠」に過ぎない**。 適量であれば素晴らしい食体験ができる、稀有な料理である。

「適量を守れば最高、調子に乗ると痛い目に遭う」──これも畜産・食肉文化の奥深さの一つだ。

消費者にとっての教訓

ブランド和牛で選ぶより、**「店主の目利き」「店の哲学」**を信頼するほうが満足度が高い。 ふるさと納税で和牛を選ぶ際も、ブランド名だけでなく:

  • どの部位を、どう調理するか
  • 産地・農家のストーリー
  • 加工・調理を担う人の哲学

これらを総合的に見ることで、本当に価値ある和牛体験ができる。

まとめ:常識を覆す者が、新たな価値を創る

戦国の世においても、既存の常識を覆した者が天下を取った。 織田信長の楽市楽座、豊臣秀吉の太閤検地。 いずれも、それまでの慣習を根本から再設計する大胆な発想だった。

奈良で出会ったこの店も、同じ系譜にある。 「脂身は廃棄部位」という業界の常識を覆し、それを看板メニューに変えた。 廃棄物が宝物に、副製品が主役に変わる。

畜産経営の戦においても、「常識を疑う目」を持った者だけが、新しい価値を創造できる。 主君も、自分の経営の中で「業界の常識として捨てているもの」がないか、ぜひ問い直してほしい。

そこに、次の戦果のヒントが眠っているかもしれない。


本記事は、奈良で実際に体験した名店での出来事をもとに執筆しています。 店名は伏せていますが、地元の方からの紹介で訪れた、和牛の脂身を主役にした特異なしゃぶしゃぶ店での実体験です。 同じような発想で全部位活用に取り組む店・農家が、今後さらに増えることを期待しています。


─ 農場の参謀よりひとこと ─

この記事は、飼料営業として全国の畜産現場で見聞きした実体験に基づいています。 個別の経営判断は、必ず担当の税理士・士業・JA・農業委員会等にご相談ください。